パウロ外伝 家出編4話【自由を求め】


メイド長
「ぼ、坊ちゃま……!?
そのお怪我はどうなさったんです!?」

深夜を過ぎた頃。
帰宅したパウロを出迎えたメイドは、真っ青な顔で声を上げた。

メイド長
「お顔がこんなに腫れて……!
ああっ、血も出ているじゃありませんか!
す、すぐに手当てを……!」

パウロ
「落ちついてくれ。
俺は大丈夫だから」

メイド長
「坊ちゃま……?
どうかなさいましたか?
なんだか雰囲気が変わって……」

パウロ
「はは、そんなことないよ。
それより手当ては自分でするから、君はもう休んで」

メイド長
「ですが……」

パウロ
「実を言うと、俺も早く休みたくてね。
明日から忙しくなるから」

メイド長
「そうなん、ですか……?」

パウロ
(そう……明日から忙しくなる……!)

装いを変えずにスラム街へ行き、案の定パウロはゴロツキたちに絡まれた。

一対一なら負けなかっただろう。
だが多勢に無勢。
パウロは容赦なく殴られ、金目のものを奪われた。

パウロ
(俺もやり返しはしたけど、トータルで見たら負けたようなものだった)

パウロ
(やられっぱなしじゃいられないからな!)

翌日、パウロは昨日と同じ服装でスラム街に乗り込んだ。
想定していたとおり、わざわざ自分で探さなくても、昨日のヤツらが集まってくる。

ゴロツキA
「おいおい! 今日も来たのか?
自分で金を運んで来てくれるとはな!」

ゴロツキB
「へっへっへ、慈悲深い貴族の坊ちゃんだぜ!
今日もありがたくいただくとするか!」

パウロ
「そう何度もやられるか!」

刃を潰した訓練用の剣を構えた。

パウロ
(これまでずっと修練してきた……。
俺の剣がどこまで通用するか試す機会だ!)

講師や家庭教師が相手の時は、一対一で相手をしてもらっていた。
複数の相手との本気の戦いはいい腕試しになる。

……というのは、あくまでも建て前で。

パウロ
(昨日の借りを返す!)

ゴロツキA
「クソッ! こいつ、なかなか……!」

ゴロツキB
「もっと仲間を呼べ!
このガキ、いっちょ前に剣を極めてやがる!」

パウロ
「極める? ……まだだ」

パウロ
(先生たちに比べたら……)

パウロ
「俺の剣はまだまだだ……。
でもお前たちには負けない!」

スラム街のゴロツキと戦い、奪われたものを取り返す。
次の日には前日より多くのゴロツキに囲まれ、金目のものを奪われる。

奪われ、取り返し……それを繰り返す内に、いつの間にかパウロの名前は、変わり者のボンボンとして、スラム街に広まっていた――。

娼婦
「パウロって、本当に貴族なの?」

パウロ
「ん? まぁ、一応そうだな……」

お世辞にも広いとは言えない寝台の上。
パウロはスラムで知り合った娼婦の女と何度目かの逢瀬を楽しんでいた。

娼婦
「だって、なんかすごく馴染んでるし。
ココで生きる人たちを見下したり、バカにしたりしないでしょ?」

パウロ
「なんでそんなことしないといけないんだ?
する理由がないだろう?」

娼婦
「へ? 理由なくするのが貴族なんじゃないの?」

娼婦
「娼婦買って、気持ち良さそうにヤるくせに、終わった瞬間ゴミを見るような目を向けてくるの。
今そのゴミの上でハァハァしてたの誰だよって感じ」

娼婦
「でも、パウロはそんなことないでしょ?
私みたいな娼婦でも一人の女の子として接してくれるもの」

パウロ
「? 自分じゃよくわからないけど、貴族の連中と違うって言われるのは嬉しいよ」

娼婦
「ふふ、そういうところ!」

女がパウロの上に座り、割れた腹筋をスーッと指でなぞる。

娼婦
「ね? もう1回シよ?
まだまだデキるでしょ?」

パウロ
「もちろん! でも君は大丈夫?
こんなに細い腰で」

娼婦
「大丈夫だよー。自慢のくびれだもん」

娼婦
「でも、そんなに心配なら、もうひとり呼んじゃう?
パウロが呼んだら、喜んで来ると思うよ?」

パウロ
「!! 一度に3人で……!」

新しい世界の扉が開く予感。
パウロは生唾を飲み込んで娼婦を見つめた。

娼婦
「スタイルいい子だし、パウロの好みじゃない?
だけど、アタシも負けてないからー、まずはアタシと、ねー?」

パウロ
「あ、ああ、うん……!」

貴族の世界に身を置いていた時も、パウロは令嬢たちと関係を持って奔放に遊んでいた。

パウロ
(あの子たちと遊ぶのも楽しかったけど、ココの女の子たちと遊ぶのは、すごく刺激的だ!)

パウロ
(それに、騙されることもないし!)

学校での悲しい現実が、走馬灯のように頭を過る。

パウロ
(腰がキュってしてると思って誘ったら、コルセットできつく絞めてただけ……)

パウロ
(脱いだら全然違うじゃん!
……みたいなことが、ココではない!)

スラム街の女たちは、生きるために自分のいいところを最大限に利用している。
パウロはすっかり夢中になっていた。

パウロ
「君たちは貴族の令嬢と全然違うな」

娼婦
「えー? それどういう意味?
答えによってはー……イジワルしちゃうかも?」

ペロリと唇を舐める彼女に、パウロは「違う違う」と首を横に振った。

パウロ
「君たちはいろんな遊びを知ってて、退屈しないなってこと」

パウロ
「それに令嬢たちとは、庭園を見てまわるとか、一緒にお茶飲みながら話すとか、そういう段階を踏まないと先に進めなかったからさー」

娼婦
「ふーん? まどろっこしいことするんだね。
最後に辿りつくところは同じなのに」

パウロ
「ほんとにな。
結局ベッドに入ることになるのに、それまでが長かった」

パウロ
(あの時はそれも楽しくはあったけど、今となっては、だな……)

彼女たちと過ごす時間を知ってしまった今、これまでの行為ではもう満足できないだろう。
その後、遅れてきた女を交えて夢のような時間を過ごした。

スラム街にいると時間が過ぎるのはあっと言う間だ。
ゴロツキとやり合い、女と遊びまわっている貴族のボンボンの噂は着実に広まっていた。

スラム街の悪ガキA
「おい、お前!」

パウロ
「ん?」

夕暮れ時――。
たわわな胸が特徴の娼婦と別れたあと、パウロは同年代の少年に呼び止められた。

スラム街の悪ガキA
「最近、調子に乗ってるみたいだな!
ラッドさんに挨拶もしないで、いい気になってんじゃねぇぞ!!」

パウロ
「ラッドさん?」

スラム街の悪ガキB
「オレたちを率いてるボス!
男の中の男だ!
知らないとは言わせねぇぞ!?」

大声で喚き散らす彼らの声に引き寄せられるように、多くの少年がゾロゾロと姿を現した。

パウロ
(15人……いや、もっといるか?)

パウロ
「悪いけど、ラッドなんて人は知らない。
……男なら興味もないしな」

スラム街の悪ガキB
「なんだと!?」

ボソリと呟いた言葉は、相手にも届いてしまったらしい。

スラム街の悪ガキB
「おとなしく挨拶に来るなら、調子に乗った態度は許してやろうと思ったが、ボスをバカにするなら話は別だ!」

スラム街の悪ガキA
「お前ら! コイツをやっちまうぞ!」

パウロ
「はぁ……せっかくいい気分だったのに……!」

次々に飛びかかってくるスラム街の少年たち。
拳やこん棒、ナイフを避けながら、訓練用の剣を振るった。

スラム街の悪ガキA
「ぐあっ……!」

スラム街の悪ガキB
「クソッ、怯むな! 全員で囲んじまえ!」

パウロ
(ゴロツキたちより弱いけど、この数はちょっと厄介かもしれないな……)

パウロ
(百歩譲って拳はいいか。
こん棒は……頭以外なら許容! ナイフは避ける!)

最近は誰かから剣術を学ぶ機会がなかった。
自分ひとりでの訓練では限界がある。
腕を実戦で試すいい機会だった。

やがて夕暮れの空が暗くなり始めた頃――。

スラム街の悪ガキA
「こいつ……本当に、貴族のボンボンか……?
たったひとりで、オレたちを……」

パウロ
「いてて……どうだ? これで満足したか?」

スラム街の悪ガキA
「くっ……ふざけんな!
オレたちはこんなもんじゃ――」

ラッド
「その辺にしとけ。
見りゃわかる。お前らの負けだ」

パウロ
「!!」

堂々とした足取りで姿を現した青年に、パウロの目が釘づけになった。

スラム街の悪ガキB
「ラッドさん……!」

ラッド
「コイツはかなりの実力だ。
お前らが相手にするには、ちっとばかし荷が重い」

ラッド
「だが、貴族のボンボンひとりにやられたとあっちゃ、オレらのメンツは丸潰れだ。
このまま見逃すわけにはいかねぇ!」

パウロ
「………………」

パウロの目はラッドに釘づけだ。

ラッド
「おい、テメェ? 聞いてんのか?」

パウロ
「………………」

正確には。
パウロの目はラッドのすぐ後ろに釘づけだ。

パウロ
「………………」

スラム街の悪ガキA
「おい! ラッドさんが話してんだろ!
無視してんじゃねぇぞ!!」

パウロ
「え? あ? うん?
そんなことより、その女の子は……?」

スラム街の悪ガキA
「そんなこと!? そんなことだと!?」

ラッド
「やめろ、吠えるな。
メリーアンが怯えるだろ」

パウロ
「メリーアン……それが君の名前?」

メリーアン
「え、ええ……」

ラッドの後ろに身体を隠して、可憐な美少女が顔だけのぞかせている。

パウロ
(俺と同い年くらいか……?
っ、ものすごく可愛い!! それに……!)

パウロ
(服の上からでもわかる、発育の良さ!!)

メリーアン
「兄さん、この人が噂の……?」

パウロ
「兄さん!?」

ラッドとメリーアンを見比べる。
共通点を見つけるのが難しいほど、まったく似ていない兄妹だ。

ラッド
「フン! オレを前にして動じないどころか、よそに気を散らす余裕すらあるとはな!」

ラッド
「気に入った!
お前をオレたちの仲間にしてやる!
オレの下につけ!」

パウロ
「お前の下に?」

ラッドの手下になった自分を想像してみる。

仲間という集団での行動。
上に命令されたら逆らわず言うことを聞き、例え気に入らなくても、是と答えなければいけない。

パウロ
(……っていうかなぁ、そもそも仲間ってのもよくわからないし……)

パウロ
「せっかく誘ってもらったけど、俺はお前の下につく気なんてない」

ラッド
「ほう……じゃあ、交渉決裂だ。
テメェはココで潰す」

パウロ
「物騒な話だな」

パウロ
「でも、わかりやすくていい」

腹の読み合いも、家格のマウントの取り合いもなく、腕力で決着をつけようという提案は、パウロには好ましく思えた。

ラッドが剣を構える。

パウロ
「剣士なのか?」

ラッド
「そんな立派なモンじゃねぇ……よっ!」

パウロ
「!!」

切りかかってきたラッドの剣を受け止めた。
ラッドは体格差を利用して、上から圧し切ろうと自重を加えてくる。

パウロ
「ッ……男にマウント取られても、嬉しくないんだよ……っ!!」

ラッド
「チッ! ムリヤリ弾きやがったか!
ボンボンのクセに腕力もあるってか!?」

パウロ
「その辺のボンボンと一緒にするな!」

パウロは学校で習っていた水神流ではなく、家庭教師に教えられた剣神流の剣を使う。

相手の先の先を取って一撃必殺。
倒しきれなければ一旦退き、再び先手で攻撃した。

ラッド
「ちょこまか動きやがって!」

ラッド
「クソッ、食らえ……!」

ラッドが地面を蹴り上げる。
パウロの顔面に砂がかかって、一瞬怯む。

ラッド
「うぉおおぉぉりゃあぁぁぁあ!」

迫ってくるラッドの剣を後ろに飛んで避け、パウロは顔にかかった砂を袖で乱暴に拭った。

パウロ
「なんでもありかよ!?」

ラッド
「生憎こちとら、おきれいな剣術なんざ知らねぇもんでな……!!」

パウロ
(なんでもありの剣術……、北神流みたいなものか……!?)

剣で切りかかってきたかと思えば、蹴り技が飛んでくる。

パウロ
(なんで北神流が三大流派のひとつなんだ!?)

パウロ
(こんなの、剣を使って戦ってるだけで、剣術じゃないだろ!?)

ラッド
「はっはっは!
オレとここまでやり合えるヤツがいるとはな!
おい、テメェ! 名前はなんてった!?」

パウロ
「パウロだ!」

パウロ
(本気の一撃に、本気の一撃が返ってくる。
打てば響くって、こういうことか!)

自分でも気づかない内にパウロは笑っていた。
ラッドの口の端も愉快そうに吊り上がっている。

ふたりとも、全力でぶつかれる相手に気持ちが高揚していた。

結局、その日は決着がつかず勝負は翌日に持ち越しとなった。
パウロとラッドの本気のようで、戯れのようでもある勝負は、それから10日間続き――。

ラッド
「懲りずにまた来たか!
パウロ! 今日こそぶっ潰してやらぁ!」

パウロ
「それはこっちのセリフだ!
今日こそ決着をつけてやる!」

メリーアン
「………………」

パウロ
(メリーアン! 今日も来てる!)

ラッド
「パウロ! よそ見とは余裕だな!」

パウロ
「ああ! 実際に余裕だからな!」

ラッド
「ははっ、面白れぇ!
お前にだったら譲ってやってもいいかもな!」

パウロ
「譲る? 何を?」

ラッド
「ボスの座だ!
お前が勝ったらボスの座を譲ってやる!」

パウロ
「は……?」

スラム街の悪ガキB
「ラッドさん!? 本気っすか!?」

周囲に集まっていた少年たちがザワザワし始める。
それほどラッドの言葉は唐突だった。

パウロ
(ボスの座なんて興味ないんだけどな……)

ラッド
「うるせぇ! 静かにしねぇか!」

ラッドの一喝でざわめきが消える。
緊張した空気の中、興味はないと言い出せる雰囲気ではない。

ラッド
「スラムじゃ力が全てだ。
オレより強いヤツにならボスの座を任せられる。
なぁ? メリーアンもそう思うだろ?」

メリーアン
「へ? あ、うん……。
ボスが強いとみんな安心できるよね。
わたしも、安心」

ラッド
「お前は本当に怖がりだな!
安心するからオレにくっついて回ってんのか!」

メリーアン
「わっ、わわ! 兄さんやめて!
目が回っちゃうわ……!」

ラッドがガシガシとメリーアンの頭を撫でまわす。
それを見ていたパウロはハッとした。

パウロ
(つまり、メリーアンは強い男と一緒にいて、安心したいと思ってるってことか……?)

パウロ
(ボスの座には興味ないけど、ボスになれば、メリーアンは俺の傍に……!?)

パウロ
(一緒にいたら仲良くなれるチャンスがモリモリ!?
そういうことだよな……!?)

がぜん、やる気が出る。
パウロは剣を構えて吠えた。

パウロ
「ラッド!! ボスの座を譲るって言ったこと、あとで取り消すんじゃないぞ!!」

ラッド
「男に二言はねぇ!」

その日、10日以上に及ぶ戦いが決着した。
これまでで一番、熾烈を極めた戦いの勝者は――パウロ。
スラム街の少年たちを率いる新たなボスの誕生だ。

深夜。
パウロはノトス・グレイラットの玄関をくぐる。

メイド長
「坊ちゃま……!」

パウロ
「……今日も起きてたのか」

メイド長
「私が起きていないと、誰が鍵を開けるんです?
そんなことより今日もこんなに怪我をされて……!
毎日どこへ行かれているんです?」

パウロ
「修行だよ、修行。
さすがに自分でも今日はやりすぎたと思うけど、その分の成果はあったから」

メイド長
「そう、なのですか……?」

パウロ
「うん、そうだよ。
だから明日も朝から出かけてくる」

そう言って部屋に戻ろうとした時、彼女がパウロの腕を控えめに引いた。

パウロ
「どうしたの?」

メイド長
「あ、あの、坊ちゃま……差し出がましいことですが、明日は外出なさらず、旦那様とお話を……!」

パウロ
「……父様と? 急にどうして?」

メイド長
「明日、旦那様は領主として、領内の視察に向かわれるそうです……その……、ピレモン様をおつれになって……」

パウロ
「!!」

領主の視察に息子がついて行く。
疎まれている長男ではなく、有望視される次男が……。

そこにどういう意味が込められているか、察するのはたやすいことだった。

パウロ
「話して、どうなるとも思えないけど」

メイド長
「そんなこと、ありません……!
それに、きっと奥様も、坊ちゃまが旦那様と和解なさることを、望んでいらっしゃるはずです……!」

パウロ
「! 母様……」

パウロ
(そういえば、母様、そんなこと言ってたっけ……)

母のバレンティナのことを思い出すと、今でも胸が軋む。母を失ったパウロの心の傷は、時間が経ってもまったく癒えなかった。

パウロ
「今さら俺が何を言ったって、どうにもならないよ。
父様の目にはもう、俺なんて映ってないだろうし」

メイド長
「そ、そんなことは……!」

パウロ
「おやすみ、君も早く休んで」

これ以上、母の顔も父の顔も頭に浮かんでほしくない。
パウロはメイドとの話を無理に終わらせて、寝室へと足を進める。

メイド長
「明日の朝、起こしに参りますので……!」

背中にかけられた声は聞こえなかったフリをした。

それなのに。
宣言どおりに起こされて、パウロは玄関ホールでふてくされていた。

パウロ
「……起きてこなきゃ、おいとまをいただきます?
そんなことを言い出すなんて……」

メイド長
「坊ちゃま、そんなお顔をしないでください。
そろそろ旦那様がいらっしゃいますよ」

パウロ
「……ああ」

パウロ
(彼女は昔から、俺に良くしてくれる。
だから、できる限り話を聞いてあげたいけど……)

パウロ
(これに関しては、な……)

メイド長
「坊ちゃま! いらっしゃいましたよ!」

パウロ
「………………」

父親のアマラントがこっちに向かって歩いてくる。

母の葬儀の時にすら、義務的な会話しかしなかった。
最近は会話どころか顔も合わせていない。

パウロ
「……父様、おはようござい――」

アマラント
「おい、馬車の用意は済んでいるな?」

従僕
「え、はい、すでに御者を待機させております」

アマラント
「そうか。ではすぐに出立できるな」

従僕
「え、ええ、ですが……」

従僕が気遣わしげにパウロを見てくる。
しかしアマラントは息子を視界に入れることなく、タイの歪みをなおしていた。

アマラント
「ピレモンはまだか?」

従僕
「それが、その……朝食だけでは足りなかったようで、お菓子を食べていらっしゃいます……」

アマラント
「何? 菓子を?
ははは、仕方のない奴だ」

従僕
「呼んで参りましょうか?」

アマラント
「いやいい、そのまま食べさせてやりなさい。
子供はよく食べて、大きくならねばならないからな」

アマラント
「私は先に馬車に乗っている。
くれぐれもピレモンを急かさないようにな」

そう言うと、アマラントは馬車に向かって行きはじめる。
最初から最後までパウロを視界に入れる気は、これっぽっちもないらしい。

パウロ
(まぁ、いいけどさ……)

ある意味、予想はできていた。
冷たい目で見られるか、それとも、見られることすらないか……。

パウロもその場から立ち去ろうとした時、隣で彼女が動くのが見えた。
その張りつめた表情を見て――。

パウロ
(ダメだ……!)

メイド長
「ッ、だん――」

パウロ
「父様!! お話が……!」

アマラント
「………………」

パウロが声をかけても、父親は振り返ることなく行ってしまった。

くすり、と――。
後ろから笑い声が聞こえる。

主の見送りに集まっていた使用人たちが、パウロを笑っていた。

メイド長
「あ、あなたたち……!」

パウロ
「いい」

従僕
「……いつまで突っ立っているんです?
さあさあ、みなさん早く仕事に戻りなさい」

彼の言葉で使用人たちがいなくなる。
残ったのは彼女だけだった。

メイド長
「ッ、坊ちゃま!
使用人たちの態度はよくありません!
きちんと叱責なさらなければ……!」

パウロ
「俺がどうこう言っても仕方ない。
あれが主人の意思をくんだ態度なんだろう?」

メイド長
「坊ちゃま……」

パウロは彼女を見つめる。
この屋敷で唯一、自分を心配してくれる人間だ。

パウロ
「よく聞いてほしい」

パウロ
「これから先、俺をかばう必要はない。
夜中に起きて待たなくてもいいし、気を遣ってくれなくてもいい」

メイド長
「そんな……!」

パウロ
「父様の……ノトス家の当主の意向に沿わないメイドなんて、何をされるかわからない。
いつクビにされてもおかしくないだろ?」

メイド長
「覚悟の上です」

迷いなく、はっきり言い切られる。
力強い目で真っ直ぐ見つめられ、パウロは――。

ピレモン
「………………」

スラム街の悪ガキたちがアジトにしている廃屋で、新たなボスとなったパウロは、頭を抱えて溜め息をついた。

メリーアン
「7回目……そんなに退屈?」

パウロ
「え? あ、いや、そんなことは!」

メリーアン
「……わたしといるのが暇なら、兄さんたちについて行けばよかったのに。
ボスとしての初仕事を蹴っちゃうなんて……」

パウロ
「いいんだよ。男だらけの仕事とメリーアンとふたりきりの時間のどっちがいいかなんて、迷うまでもなく後者だから!」

メリーアン
「ふふふ、なぁにそれ? わたしといるより、外で暴れてるほうが楽しいんじゃないの?」

パウロ
「そんなことないよ。
どうしてそう思うんだ?」

メリーアン
「だって、兄さんと戦ってる時のパウロ、すごく楽しそうな顔してたわ……」

メリーアン
「だけど今は溜め息ばっかり。
兄さんにわたしのこと押しつけられたって、思ってるんじゃないの……?」

パウロ
「思ってないよ!?」

思わず声をあげれば、メリーアンはおかしそうに笑って小首をかしげる。

メリーアン
「じゃあ、どうして?
暗い顔で溜め息なんてついてたの?」

パウロ
「それは……」

パウロは家であったことを、かいつまんで話した。

母の死、父や弟との確執などは説明しなかったが、どうやら複雑な家庭事情は、察してもらえたらしい。

メリーアン
「でも、わからないわ。
自分の味方になってくれる人がいて、……どうして喜ばなかったの?」

パウロ
「うーん……」

パウロ
(彼女は本気で覚悟してた。
俺に味方して、当主に逆らってもいいって……)

あの時の顔を思い出すと、パウロは今でも背筋が震えそうになる。

パウロ
「俺、怖かったんだ」

メリーアン
「怖い?」

パウロ
「彼女は仕事をクビになる覚悟で、俺をかばってくれようとしてた」

パウロ
「でも、そんなことをしてもらっても、俺は彼女に何もできないって、気づいたんだ」

パウロ
「クビになった彼女に新しい仕事を紹介できないし、生活を保障してあげることもできない。
俺は、責任を取れるほど、何かを持ってない……」

メリーアン
「その人のことは、よくわからないけど、パウロに責任を負わせようとは、これっぽっちも思ってないんじゃないかな?」

メリーアン
「その人はパウロのことが大切で、ただ味方でありたいと思っていただけ、とか」

パウロ
「そうかもしれないけど……俺はその気持ちが……、それほど大きな気持ちに、報えないことが、すごく怖かったんだ……」

もしかすると、父親の視界に入らないことよりも、彼女の気持ちに責任を持てないことのほうが怖かったのかもしれない。

パウロ
「情けない、よな……」

パウロ
「メリーアンもがっかりだろ?
新しいボスとか言われてるヤツが、責任を負うのが怖いとほざく、こんなんで……」

メリーアン
「……誰にだって怖いことのひとつくらいあるだろうし、パウロは情けなくなんてないわ。
それにね……話してくれて良かったって思う」

メリーアン
「わたし、身体が弱いから、兄さんたちみたいに動きまわれなくて……。
いつも、なんにもできないなぁって思いながらここにいたの」

メリーアン
「だから、あんなに強いパウロにも、弱いところがあるんだって知って、わたし、びっくりしたのと同じくらい、嬉しかった」

パウロ
「嬉しい……?」

メリーアン
「うん。あなたの弱い部分を、わたしでも守ってあげられるんじゃないかって、
そう思ったから」

パウロ
(え……)

優しい微笑みだった。
まったく似ていないのに、彼女の顔が、亡くなった母親と重なる――。

メリーアン
「話してくれて、ありがとう。
ふふ、なんだか不思議。
パウロとの距離が一気に近づいた気がするわ」

パウロ
「そうだな……でも、俺はもっと距離を縮め――」

メリーアンの頬に手を添えて顔を近づけた。
彼女も察して目を閉じ……かけた時。

ラッド
「パウロ! ちょっと来てくれ!!」

先代ボスことラッドが勢いよく飛びこんで来た。

ラッド
「他所のシマのヤツらが乗りこんで来やがった!
新しいボスの力を見せつける絶好の機会だぜ!」

パウロ
「……そうだな……」

ラッド
「なんだ? その不満そうな顔は?
オレがせっかく呼びに来てやったってのによぉ」

パウロ
(こいつ……!)

パウロ
(いいところだったのに、邪魔しやがって……!!)

パウロ
「なんでもない! どこへ行けばいいんだ?」

ラッド
「おう! こっちだ!」

苛立ち混じりにラッドの肩を殴れば、意気揚々と肩を組まれる。
振り払おうとするが力が強くて離せなかった。

メリーアン
「パウロ、いってらっしゃい」

パウロ
「い、ってきま、す」

パウロ
(そういえば……)

パウロ
(誰かに笑顔で送り出されるのは、どれくらいぶりだろう……)

胸があたたかくなるのを感じながら、パウロはアジトを出た。

ラッド
「メリーアンの前じゃ言えなかったが、乗りこんで来たヤツらってのは、ちょっとばかし厄介な連中でな……」

ラッド
「まぁ、心配はいらねぇか!
オレとお前が力を合わせたら、すぐ解決できる!」

パウロ
「……ああ、そうだな。
さっさと終わらせて帰ろうぜ」

自分の帰りを待っている人がいる。
しかもすごくかわいい。

自分を頼ってくれる人もいる。
嘲笑われることも見下されることもなく、慕ってくる人間の存在は、自己肯定感を満たしてくれた。

それからパウロは新たなボスとして問題の対処にあたった。
とはいえスラムには詳しくないため、中心となって動いたのはラッドだったのだが。

問題が解決するまで、2週間と少し。
パウロは貴族としての自分を忘れ、物騒だが満ち足りた生活を送ることができていた。

メリーアン
「パウロ、おはよう。
朝ごはんができてるわ。食べるでしょう?」

パウロ
「もちろん!」

メリーアン
「満面の笑みね。そんなに喜ぶこと?
うちの食事なんてたいしたものじゃないわ」

パウロ
「メリーアンの手作りなら、泥団子だってごちそうだ!」

メリーアン
「ふふふ、やーね。
そんなもの出さないわよ」

パウロ
「たとえ話だって。
そういえば、ラッドは?」

メリーアン
「まだ寝てるの。起こしてきてくれる?」

パウロ
「それは無理かな。
あいつが起きてきたら、メリーアンとふたりきりじゃなくなる」

メリーアン
「もう、パウロ……」

頬を赤くするメリーアンをパウロは抱きしめた。
細い腰に腕を回して、女性らしい柔らかい感触を堪能する。

パウロ
(屋敷にいるより、ココにいるほうが、気持ちが軽くなる……)

パウロ
(スラムにいたほうが、俺は俺らしく、自由に生きれるのかもしれない)

パウロの中で日増しにその気持ちは強くなっていった。

そんなある日のこと。
パウロがいつものように深夜を過ぎて帰宅すると――。

パウロ
「え? 今、なんて……?」

従僕
「旦那様がお待ちです、と申しました」

パウロ
(父様が……? なんで俺を?)

困惑する。
父親の中で自分はとっくにいないものだと思っていた。
それなのに呼び出されるなんて……。

執務室に足を踏み入れる。
そこには険しい顔をしたアマラントと、夜も更けた時間だというのに、弟のピレモンがいた。

パウロ
「……お呼びだと聞いたのですが?」

パウロが口を開くと、父親が何も言わずに近づいて来て、手をふりかぶった。

バシン、と――。
耳元で音がするのと頬に衝撃が走るのは同時。
パウロはたたらを踏んで後ろに下がった。

パウロ
「っ……何を……!」

アマラント
「黙れ! ノトス家の恥さらしが!!」

アマラント
「我が家から太陽を奪っただけでは足りず、家名を陥れようというのか!?」

パウロ
「ああ!?」

太陽が母を示していることを悟り、パウロの頭に血が昇る。

パウロ
「今まで無視してたくせに、いきなり呼び出したと思ったら、なんの話だよ!?」

ピレモン
「にい様、そんな言葉を使うのはやめてください。
ぼくたちは貴族なのですよ?」

パウロ
「知るか!
好きで貴族の家に生まれたわけじゃない!」

アマラント
「パウロ!!」

パウロ
「ッ、ぁ……!」

二発目の拳が飛んでくる。
避けようとしたが、アマラントの拳は想像よりも速く、まともに食らってしまう。

アマラント
「人は生まれる家を選べはせぬ。
だからこそ私はお前を貴族の長男として育ててきた」

パウロ
「育てた? 最近は目も合わせなかったくせにか!?」

アマラント
「反論できる立場か!?
視界に入れる価値すらなくしたのは誰だ!?」

ピレモン
「にい様、もうあきらめてください。
全てバレてしまっているんです」

ピレモン
「ぼく、見てしまいました。
にい様は、スラム街に出入りしているでしょう?」

パウロ
「!!」

アマラント
「ノトス・グレイラットの名を持つ者が、スラム街で遊びまわっているなど、言語道断!!」

アマラント
「先祖代々守られてきた、栄誉ある我が家の名を地に落としかねん行為だ!
そんなこともわからんのか!?」

パウロが口を挟む暇もないくらい、頭ごなしに怒鳴られる。
その隣ではピレモンがにやけた笑みを浮かべていた。

アマラント
「謹慎だ! 今後一切!
部屋の外に出ることは許さん!!」

パウロ
「謹慎!? 冗談じゃない!」

パウロ
「こんな場所に閉じ込められてたまるか!
俺の居場所はここじゃない!!」

ピレモン
「にい様! いい加減にしてください!
あなたがそんなことだから……、母様が亡くなってしまったんですよ!」

パウロ
「お前……ッ!」

ピレモン
「にい様に……こんな奴に情けなどかけなければ!
母様もまだ生きていたはずです!!」

ピレモン
「父様! にい様には厳しい処分を!
ノトス・グレイラット家には、ぼくがいます!
ぼくが家を守っていきます!!」

パウロ
「お前……ふざけんなよ!!」

ピレモンが母のことを口にする度に、パウロの中のバレンティナの姿にヒビが入っていく。

兄を貶めるために母を利用している。
そんなピレモンの性根に、パウロのはらわたは煮えくり返った。

パウロ
「俺のことが嫌いでも!
母様を利用するようなマネするなよ!!」

ピレモン
「ひっ!」

パウロはピレモンに飛びかかると、押し倒して馬乗りになる。
そして顔面に何度も拳を振り下ろした。

パウロ
「母様を! 冒涜するな!!」

ピレモン
「ぶぐっ! げふッ! や、やめ、ぶぼ……ッ!!」

パウロ
「母様に……! 汚い思惑を持って、触れるな!!」

アマラント
「ッ!!」

死してなお、否、生前以上に、パウロにとってバレンティナは神聖な存在になっていた。
弟であっても触れられたくない、やわらかい部分に。

アマラント
「やめろ! パウロ!」

パウロの剣幕に怯んでいたアマラントがようやく動く。
馬乗りになっていたパウロをピレモンから引きはがした。

パウロは父親を振り払い、威嚇するように鋭い目で睨みつけた。

ピレモン
「っ……う、ぅぐ……」

アマラント
「鼻が折れている……自分よりも幼く、弱い弟に、これほどまでの暴力を振るうなど、お前は何を考えている!?」

パウロ
「そんなの決まってる!
母様のことだ! 俺が考えているのはそれだけだ!」

アマラント
「笑わせるな!
お前にバレンティナの何がわかる!?」

アマラント
「バレンティナのことを考えている?
たわごとを!! お前はバレンティナを名目に、憎い弟に制裁を加えたのだろう!?」

アマラント
「自分よりも優秀で、両親に愛される、貴族らしい弟に嫉妬してな!!」

パウロ
「そんなことない!
この家に、嫉妬するだけの価値があるかよ!」

アマラント
「貴様……! 家の名を愚弄するか!?」

アマラント
「そのような者はこの家に必要ない!!
家名はピレモンに継がせる!
今すぐ出て行け!!」

パウロ
「ああ! 上等だ!
こんな家、こっちから出て行ってやる!!」

売り言葉に買い言葉ではあったが、名門ノトス・グレイラットの名を捨てることに、パウロはためらいなどしなかった。

少しも、未練はない。

パウロ
「これ以上、こんなところにいられない!
貴族なんて面倒なことばっかりで、楽しくもなければ、面白くもない!」

パウロ
「こんな窮屈な世界で生きて、老いて、死んでいくなんてゴメンだ!!」

そう言い捨てて出て行こうとしたパウロの前に、従僕が立ちふさがった。

従僕
「い、いけません……!
旦那様! 坊ちゃまを止めてください!」

アマラント
「………………」

従僕
「ノトス・グレイラット家の長男が勘当……、いえ、出奔でも、なんでも、家を捨てるなど……あってはならないことです!」

アマラント
「私は出て行けと言った!
その判断がくつがえることはない!」

従僕
「おふたりとも、今は冷静ではありません!
っ……おまえたち! 坊ちゃまを止めるのだ!」

従僕が使用人たちに指示を飛ばすと、パウロの前に人の壁が増えた。

手には制圧用の三叉を持っており、パウロを力ずくで捕まえようとしているらしい。

パウロ
「止められるもんなら止めてみろ!」

パウロは使用人たちに向かって駆けだす。
三叉が迫ってくるが、軽やかな足さばきでかわした。

アマラント
「! その動きは……」

無駄のない動きは、見る者が見れば瞬時に理解する。
パウロの戦闘の実力がどれほどのものか、と。

パウロ
(母様、もしあなたが生きていたら、家を捨てる俺を怒りましたか?)

パウロ
(それとも、笑顔で見送ってくれたでしょうか?)

パウロ
(こんな窮屈な世界、パウロには似合わないわ……って)

パウロ
「……いってきます……」

パウロの呟きを拾った者は誰もいない。

パウロ、12歳。
満天の星がまたたく夜、少年は虚しい気持ちで生まれ育った家を捨てた。



修行編1話【水神流】へ

パウロ外伝まとめへ