パウロ外伝 家出編1話【パウロ・ノトス・グレイラット】


甲龍歴388年。

アスラ王国の上級貴族、ノトス・グレイラット家に待望の長男が誕生した。
授けられた名前は――。

バレンティナ
「パウロ……パウロ・ノトス・グレイラット……。
わたくしの可愛い赤ちゃん……。
母の元に生まれてきてくれて、ありがとう」

パウロは母親からの深い愛情を受けて、すくすく成長した。
そして5年後。

甲龍歴393年。

ノトス・グレイラット家の屋敷――。

従僕
「坊ちゃまー! 坊ちゃまー!
出てきてくださいませ! 坊ちゃまー!」

従僕
「いったいどこへ行かれてしまったのだ……。
……ああっ、メイド!」

メイド
「はい? どうなさいました?」

従僕
「坊ちゃまを見なかったか!?
どこにもいらっしゃらないんだ!」

メイド
「坊ちゃまでしたら、
先ほど馬屋のほうへ向かわれておりました」

従僕
「馬屋!? まさか外へ行くつもりか!?
クソッ……こうしちゃいられない!」

慌てた様子の従僕がその場を去って行く。
姿が見えなくなると、メイドは「ほぅ……」と熱い息を吐いた。

メイド
「ん……坊ちゃま、彼はもう行きましたよ。
どうぞ、出てこられてください」

パウロ
「うん、そうか」

くぐもった子供の声がして、メイドのスカートがまくれ上がる。

彼女のスカートの中でしゃがみ込んでいた少年こそ、アスラ王国上級貴族、ノトス・グレイラット家のひとり息子、
――パウロだ。

パウロ
「かくまってくれてありがとう。
おかげで助かった」

メイド
「い、いえ……坊ちゃまの願いを叶えることが、使用人の役目でございますから……んっ……」

パウロ
「あいつも父様も、しつこくてイヤになる。
おれは勉強なんてしたくないのに、かってに家庭教師なんて呼んじゃってさ」

パウロ
「それもじいさんなんだよ。
歯がほとんどないから何言ってるかわかんないし、どうせなら、もっと若くてかわいい人を呼んでくれたらいいのに」

パウロ
「おれを膝に乗せて授業してくれる、優しいおねえさんがいいなぁ……。
探せばいると思うんだけど……どうかな?」

メイド
「そ、そうでございますね……ぁ……、
ん……っ、坊ちゃま……その、足を撫でる手を、止めてはいただけませんか……?」

真っ赤な顔で目を潤ませるメイドの姿に、パウロはパッと手を離してスカートの中から出てきた。

パウロ
「ああ、ごめん!
すべすべして気持ち良かったから、つい!」

パウロ
「でも、ずっと中にはいられないね。
だんだん熱くなってくるし」

メイド
「熱く……いえ、決してそのようなことは……!」

パウロ
「しぃー」

真っ赤な顔で声を上げたメイドに、パウロは口の前で人差し指を立てる。

パウロ
「そんなに大きな声出さないで。
あいつが戻ってきたら困るんだ」

メイド
「あ……申し訳ございません!」

パウロ
「いいよ。その代わりまたよろしく」

そう言うと、パウロは廊下を駆け出した。
通りすがりにメイドの尻を撫でるのを忘れずに。

パウロ
(うん、もう少し大きいほうが好き)

パウロ
(さーてと! 明日は誰に助けてもらおうかな?)

上級貴族の待望の長男として生まれてきたパウロは5歳にしてすでに異性への奔放さを発揮していた。

グレイラット家の男はそういった人間が多いとされる。
だがしかし、さすがに目覚めが早すぎだと、屋敷の中ではもっぱらの評判だ。

逃走劇が日常となりつつあった、ある日のこと。
パウロはついに父親に呼び出された。

パウロ
(なんかまじめな顔してる……。
今日の父様はいつもと少し違うような……)

アマラント
「何故呼ばれたかわかるな?」

パウロ
「わかりません」

アマラント
「……ん?」

初めての子供だからか、父親は表面上、厳しい顔をしていても、基本的にパウロに甘い。

パウロ
「わからないって言いました。
父様が考えていることなんて、おれにわかるはずないよ」

アマラント
「む……」

パウロ
(あ、シュンってした)

パウロ
(なーんだ、心配して損した!
いつもの父様じゃん!)

シュンとしたのは一瞬で、父親はすぐに真面目な顔に戻った。
だが無理をしているのは一目瞭然だ。

アマラント
「ゴホン……パウロよ。
そういう口の利き方はやめなさい」

アマラント
「私は日頃から言っているはずだ。
ノトス・グレイラット家の子供として常に貴族らしくあれ、と」

アマラント
「それなのにお前はひとり息子としての自覚もなく、勉強から逃げて、屋敷の中を駆けずり回るときた。
せっかく側仕えをつけたというのに、これでは意味がない」

パウロ
「だって、勉強なんておもしろくないんだもん!」

アマラント
「それでもせねばならん。
ノトス・グレイラット家の息子は素養がないと噂されでもしたら、傷つくのはお前なんだぞ?」

パウロ
「勉強しなくていいなら、傷くらいついていいです」

パウロがきっぱり言い切ると、父親は眉間の皺を揉んだ。

アマラント
「これから先、馬鹿息子と呼ばれるようになれば、お前が領主となった時に苦労する。
馬鹿な領主を敬う領民などおらんのだ」

アマラント
「それに私が言っているのは、勉強のことだけではない」

アマラント
「お前が使用人の尻ばかり追いかけ回していることは、私の耳にも入ってきているぞ。
むやみにメイドに触るのはやめなさい」

パウロ
「は!? そんなのイヤです!!」

呼び出されて一番の大きな声を出したパウロに、父親は目を丸くした。

パウロ
「スカートをめくるのも!
スカートの中に入ってかくれんぼするのも!
お尻にタッチするのも!」

パウロ
「こんな楽しいことは、ほかにありません!
子供の楽しみをとりあげようとするなんて!
父様はれいこくな親です!」

パウロ
「自分は、楽しんでいるくせに!!」

アマラント
「!? な、なんのことだ!?」

パウロ
「とぼけないでください!
父様だって同じことをしてるじゃないですか!!」

気持ちが高ぶっていく。
気づけばパウロの目からは涙が落ちていた。

パウロ
「この間、新入りのメイドが洗濯をしている時、父様はお尻を見ながら『悪くないな』って笑ってました!
とってもデレデレした顔で!」

ちなみにそのあと、父親は新入りのメイドに近づき、腰を抱きながら耳元で何かを囁いていた。

パウロ
「おれ、この目で見ました!
抱きよせたのも! お尻を触っていたのも!
ぜーんぶ! 見ました!!」

パウロ
「おれはダメで自分はいいなんて、ずるいです!」

アマラント
「なっ……!? 馬鹿なことを言うでない!」

アマラント
「そ、そそその時はだな、えー、あー……そう!
新入りの仕事ぶりを評価して『悪くない』と言ったのだ!」

パウロ
「では、ぎゅってしたのは!?」

アマラント
「それは……スキンシップの一環だ!
早く屋敷に慣れてもらうためにしたこと……他意はない!」

パウロ
「……本当ですか?」

アマラント
「……ああ、もちろんだとも。
屋敷に仕える者を心身共に労わってやることも、主人として、貴族としての務めだ」

父親は平静を取り戻そうとするかのように咳払いをする。

アマラント
「ま、まぁ、年上の女に触れることで、パウロも安心感を覚えていたようだからな。
全面的に禁止することは、しないでおこう」

パウロ
「父様……!」

キラキラした目を向けられて、彼はまんざらでもなさそうだ。
それでも威厳を保とうと、険しい表情を浮かべていた。

アマラント
「女に興味があるのは仕方がない。
幼くとも、お前はグレイラット家の男だからな」

アマラント
「だが今後はもう少し慎みなさい。
勉強にも励むように……わかったな?」

パウロ
「わかりました!」

アマラント
「……本当にわかっているのか?」

パウロ
「はい!」

再度訪ねて来る父親に、パウロは大きく頷いてみせる。

アマラント
「ならばいいが……もうすぐ、お前の誕生日パーティーだ。
多くの貴族を招待している」

アマラント
「だからくれぐれも……くれぐれも!
父の言葉を忘れないようにするのだぞ?」

パウロ
「もちろんです!」

背筋が伸び、凛とした威勢のいい返事だ。

まさかこの返事をした息子が、この翌日、こりずにまた逃走劇を繰り広げるなど、アマラント・ノトス・グレイラットは思いもしなかった。

従僕
「坊ちゃまー! 坊ちゃまー!
出てきてくださいませ! 坊ちゃまー!」

従僕から逃げ、パウロは屋敷の廊下を駆ける。

パウロ
(あいつも飽きないよな)

目指すは秘密の花園、もといスカートの中だ。

パウロ
(最初に出会ったスカートに飛び込もう!)

そんなことを考えながら、廊下の角を曲がる。
その先にいたのは――。

パウロ
「母様!」

バレンティナ
「パウロ?」

パウロ
「父様の手先に追われているのです!
かくまってください!」

メイドのものよりも豪華なドレス。
スカートの裾をまくって中に入ろうとした。

が、それは敵わない。

バレンティナ
「こら、パウロ」

母親のたおやかな指がパウロの頬を引っ張って、潜り込むことを許さなかった。

バレンティナ
「淑女のスカートを暴こうとするなんて、十年早いですわよ」

頬をぐいぐい引き伸ばされる。
……しかたない。
パウロはしぶしぶスカートから手を離した。

バレンティナ
「レディに接する時は優しく、敬意を払って、ですわ。
わかりましたわね?」

パウロ
「ふぁい。かーひゃま、ごめんなはい」

バレンティナ
「はい。よろしいですわ」

パウロは解放され頬を撫でる。
母親はくすくす笑った。

バレンティナ
「わたくしの可愛い子は、ここで何をしているのかしら?
今は授業の時間だったと思うのだけれど?」

パウロ
「はい! いつものように、お茶とお菓子をお出しして、失礼してきました!」

バレンティナ
「まあ、さすがパウロだわ。
あなたはとても気が利いて、優しい子ね」

パウロ
「優しいのは母様です。
父様みたいに貴族らしくしろとか、勉強しろとか言わないし……」

バレンティナ
「そういうものは無理に叩き込まなくても、自然と身につくものだわ。
上級貴族の家で暮らしていたら、いずれね」

バレンティナ
「だけど今はまだ、他に大事にしてほしいものがあるの。
優しさや明るさ、元気の良さ……わたくしは、あなたの持って生まれたものが、心から大好きよ」

パウロ
「母様……おれも、母様が大好きです」

両手を広げて抱きつく。
母は抱き締め返してくれた。

バレンティナ
「ふふ、こんなに大きくなったのね」

パウロ
「はい! おれはもう5歳ですから!」

バレンティナ
「なんて頼もしいのかしら。
旦那様は心配なさっていたけれど、誕生日パーティーは大丈夫そうだわ」

笑顔の母に力強く頷いてみせる。

パウロは母親が大好きだった。

メイドのスカートの中も好きだが、母とは比べものにならない。
パウロにとって、一番心安らげる場所だ。

パウロ
(母様が大丈夫だって信じてるなら、パーティーではおとなしくしてようかな)

そして幾日が過ぎ、パウロ・ノトス・グレイラットの5歳の誕生日を祝う、パーティーの当日を迎えた。

アマラント
「いいか、パウロ。
今日は多くの貴族が列席している。
くれぐれもメイドに触れることがないように」

アマラント
「もちろん、メイドだけではない。
夫人や令嬢には、決して! 決して!
決して触れてはならんぞ!?」

パウロ
「わかってますよ」

貴族の子供の誕生日パーティーには、家の財力や権力を誇示する意味合いもある。

ましてや、ノトス・グレイラット家は上級貴族。
豪華絢爛な内装だ。

用意された食事も、音楽を演奏する楽団も、一流のものが揃えられている。

アマラント
「皆様、本日はよくおいでくださいました。
……パウロ、挨拶なさい」

パウロ
「はい!
本日は、わたしの5歳の誕生日をお祝いしてくださり、ありがとうございます」

パウロ
「ノトス・グレイラット家の長男として、これから、せいいっぱい励んでいきますので、どうぞよろしくお願いいたします」

教えられたとおりの言葉をなぞる。
拍手の中、チラリと横を見ると、父が満足そうな顔をしていた。

輝かしい会場で、パウロは多くの貴族と顔を合わせた。

パウロ
(みんな似たような格好のおじさんばっかり……。
名前と顔が合わなくなってきちゃった)

パウロ
(女の人はわかりやすくていいや。
ドレスも髪型も身体の大きさも違うし)

パウロは夫人や令嬢たちを順に見る。
にこやかな表情だ。

令嬢A
「パウロ様! お誕生日おめでとうございます!」

令嬢B
「もしよろしければ、私たちとご一緒しませんか?」

パウロ
「きみたちと?」

5、6人の着飾った令嬢がパウロの前に進み出る。
10歳くらいだろうか。
全員パウロより年上のようだ。

パウロ
(あ、かわいい)

パウロ
「父様、こちらのお嬢様たちを、庭園にご案内してもよろしいですか?」

キリッとした顔で父親に伺いを立てる。
普段めったにしない、よそ行き用の顔だ。

アマラント
「……ああ、もちろんだとも。
しっかりエスコートしてさしあげなさい」

父親は何か言いたげな顔をしていたが周囲には人の目がある。
結局飲み込むことにしたようだ。

パウロは令嬢たちをつれて、ノトス・グレイラット家の庭園に向かった。

庭師が手入れしたばかりの庭には、さまざまな花が咲き乱れている。
庭園に近づくにつれ、令嬢たちの顔が明るくなっていった。

令嬢A
「まぁ! なんてきれいなんでしょう!」

令嬢B
「あちらはどうなっていますの?」

パウロ
「あまり早足だと危ないですよ」

令嬢B
「大丈夫ですわ――きゃっ!」

パウロ
「おっと!」

足を滑らせたひとりの令嬢の身体を支える。

パウロ
(あ……いい匂いがする!)

令嬢B
「パ、パウロ様、すみません……!」

パウロ
「いいえ、いいんです。
もしよければ、お手をどうぞ」

パウロ
(うーん……マナーの講師は、なんかこうやれって言ってたような……)

片手を胸にあて、令嬢の前にもう片方の手を差し出す。

令嬢B
「ありがとうございます、パウロ様。
お言葉に甘えさせていただきますわね」

手が重なる。
貴族の娘らしい柔い手だ。

令嬢A
「ずるいですわ! おひとりだけ!」

令嬢A
「パウロ様、わたしのことも
エスコートしてくださるでしょう?」

令嬢C
「でしたら私も!」

我も我もと令嬢たちがパウロに迫る。

着飾った令嬢たちの色とりどりのドレスが、ひらひら動いていた。

令嬢C
「っ!?」

パウロ
(あ……)

条件反射。

やってしまった。
いつもメイドにしているように、手が出てしまった。

令嬢C
「あ、あの、パウロ様……? 今、私の……」

困惑するひとりの令嬢。
その雰囲気が他の令嬢たちへ広まろうとした時――

パウロ
「土です!」

令嬢C
「は……?」

パウロ
「庭園の土が、はねてしマッタようデス」

イントネーションがおかしい。
それでもニコニコ笑顔で言えば、彼女たちは信じてくれたようだ。

パウロ
(ウソだってバレないように土をつけておこう)

パウロ
「そのままではパーティーの会場に戻れません。
我が家の使用人に命じて、土を落としましょう」

令嬢C
「まぁ! パウロ様……まだ幼いというのに、なんてお気遣いのできる方なのかしら!」

令嬢B
「さすがノトス・グレイラット家のご子息ですわ!」

可愛らしい令嬢たちに囲まれ、チヤホヤされる。

パウロ
(なんだろう? ドキドキする……)

パウロ
(貴族なんて、めんどくさくて、おもしろくないって思ってたけど……)

パウロ
(ノトス・グレイラット家の長男って、すごくいいことなのかもしれない……!)

上級貴族の長男の利点。
パウロは初めてそんなことを考えた。

その日の夜――。

パウロは、令嬢たちと手をつなぎ、腕を組んで庭園を散策したこと、それがとても楽しかったことを、父親に報告した。

アマラント
「方法はどうであれ……、貴族の娘と親交を深められたのは重畳。
今後のためにもなるだろう」

パウロ
「怒らないんですか?」

アマラント
「触るなと言いつけたにも関わらず、触ったという話か……。
今回のことで、お前も心境の変化があったようだ。
特別に大目に見てやろう」

パウロ
「本当ですか!?」

アマラント
「ああ。二言はない。
それよりもだ、パウロ」

おやおや?
不意に父が目を細めて、パウロを抱きかかえた。

パウロ
「と、父様……?」

アマラント
「パウロ、貴族としての自覚が、多少なりとも出てきたようだな」

パウロ
「自覚というか、まぁ……、そんなに悪くないのかもなぁって……」

アマラント
「そう思えるようになったなら、いい機会だ」

アマラント
「パウロ、学校に通ってみないか?」

パウロ
「学校、ですか?」

寝耳に水。
パウロは父の顔を見つめる。

アマラント
「読み書き、算術、歴史、礼儀作法はもちろん、剣術や魔法も教えてくれる機関だ」

パウロ
「そこへ行けと? 勉強はきらいです」

アマラント
「だが、学校には可愛らしい貴族の令嬢がいるぞ」

パウロ
「え?」

アマラント
「ゆっくり考えるといい。
今日は疲れただろう、もう休みなさい」

学校に通うか否か。
パウロは選択肢を与えられた。

……と、思われたのだが。

パウロ
「父様……なんて、れいこくな人なんだ!!」

数週間後――。
パウロ少年の姿はミルボッツ領内の学校にあった。

パウロ
(ゆっくり考えろって言ったのに!)

その言葉があったせいか、完全に油断していた。

少し遠出をしようと父に誘われて馬車に乗り込んだあと、気づけば学校に放り込まれたのだ。

パウロ
(だいたいさー!
こんなやり方じゃなくてもよかったよな!)

パウロ
(あんまりだ! オーボーだ! そのせいで……)

パウロ
「母様にあいさつできなかったじゃん」

大好きな母親の顔を思い浮かべる。
次に会えるのはいつになるのだろう。
考えるだけで気持ちが落ち込んでいく。

そして、貴族の嫡男として、悠々自適に暮らしていたパウロにとって、学校での生活は決して楽しいものではなかった。

入学して数週間で、パウロはすっかり学校が嫌いになっていた。

中級貴族子息
「おい、貴様!
男爵家の子ごときが、私の前を塞ぐとは不敬だぞ!
廊下の端に避けよ!」

???
「も、申しわけございません!」

パウロ
(あー……またやってるよ)

パウロ
(周りもクスクス笑ってるけど、何がそんなに楽しいんだろ?)

威張った中級貴族の子息と、その取り巻きが去って行く。

パウロはその場でうつむいている少年に近づいた。
どうやらパウロより少し年上のようだ。

パウロ
「ねぇ、なんで言い返さないの?」

???
「っ……きみは……」

パウロ
「前をふさいだりしてなかったじゃん。
通れる幅はあったよ」

???
「そんなこと、言えるはずない!
中級貴族の方に逆らったりしたら、家に何かされるかもしれないし……」

パウロ
「? どうして?」

???
「ど、どうしてって……?
普通に考えればわかるだろ……」

パウロ
「普通に……」

???
「……声をかけてくれて、ありがとう。
でも、数学の授業があるから。失礼させてもらうよ」

足早に去って行く背中を見ながらパウロは眉を寄せた。
さっぱり、わけがわからなかった。

パウロ
(これが普通?
貴族にとっての普通ってこんな感じなの?)

パウロ
「ほんと……よくわかんないな」

モヤモヤした気持ちのまま呟く。

パウロはしばらくそこから動けずにいた。
だがそろそろ次の授業が始まる時間だ。
確か、歴史の講義だったか。

少しの逡巡したのち、パウロは頭を振った。

パウロ
(うん、気分じゃないし!)

パウロは教室とは反対の方向に歩き出す。

ただただ椅子に座って聞くだけの授業は嫌いだ。
入学以来、こうして何度もサボっている。

パウロ
(今日はどこへ行こうかな)

貴族の子女が通うだけあって、学校の敷地は広い。
右へ左へ、心のおもむくままに進んで行く。

パウロ
(うーん……)

パウロ
(ひとり探検するのもいいけど、どうせなら誰かと一緒のほうが楽しいかも)

パウロ
(……あ! そうだ!)

思い立ったら深く考えず、すぐに行動に移すのが、パウロという少年だった。

数学の授業が行われる教室の前へ行き、授業が終わるのを待つ。

そして、目当ての人物が出てくると、その腕を掴んだ。

パウロ
「や! さっきぶり!」

???
「き、きみは……なんで、ここに?」

気弱そうな顔の少年は、パウロに腕を引かれて目を見開いた。

パウロ
「数学の授業って言ってたから!
きみくらいの学年が使ってる数学教室の前にいたら、会えるんじゃないかと思って!」

???
「ぼ、僕になんの用……?」

パウロ
「きみの名前は?」

シートン
「名前? シートン・アグ――」

パウロ
「シートン! シートンね!
家名はいいよ、あんまり興味ないし!」

パウロ
「おれはパウロ! よろしく!」

シートン
「よろしくって……」

シートンは困惑している。
パウロが待ち伏せてまで声をかけた理由を、説明しようとした時――。

中級貴族子息
「邪魔だ、退け」

中級貴族子息
「……なんだ、また貴様か。
こうも何度も私の前を塞ぐとは、よほど物申したいことがあるようだな? んん?」

シートン
「い、いえ、そんなことは……!
申しわけございません!」

パウロ
(またこいつか)

中級貴族子息
「私は寛大だからな。話を聞いてやろう」

中級貴族の子息のにやけた顔や、取り巻きたちの嘲りの顔に、パウロは眉を寄せる。

中級貴族子息
「さあ、どうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ」

パウロ
「ないって言ってるだろ」

明らかに人を見下している顔が不快だった。
パウロはシートンと中級貴族子息の間に割って入る。

中級貴族子息
「なんだと?」

パウロ
「だから、ないって言ってる。
聞こえなかったのか?」

中級貴族子息
「生意気な態度だな。
新入生のようだが、幼さを理由に、不敬が許されると思っているのか?」

パウロ
「そんなのは知らないけど、きみのことは、見てるとイヤになる」

中級貴族子息
「貴様……!」

中級貴族の子息が激高しかけた瞬間、パウロは後ろから肩を引かれた。

パウロ
(え?)

そして、目の前にシートンの背中が現れる。

シートン
「す、すみません!
僕のほうから、注意しておきますので……!
ほら、きみも謝って!」

パウロ
「なんで?」

シートン
「なんで!? むしろなんでそんな反応なの!?」

パウロ
(それはこっちのセリフなんだけどな)

パウロは首を傾げる。
シートンが言うことをまったく理解できない。

例えば、パウロが父親に『あいつがムカつくんです!』と告げたとして、いくらパウロに甘いところのある父親でも、『よし、わかった。ちょっと潰してやろう』とは言わないだろう。

パウロ
(こいつの家はそうじゃないってこと?
だったら中級貴族ってロクな家じゃないじゃん)

中級貴族子息
「貴様……よほど中級貴族を舐めているようだ。
私に無礼な言動を取ったこと、後悔させてやろう。
おい、貴様の名はなんだ?」

パウロ
「パウロ」

一瞬も迷わない。
パウロは堂々と名前を告げる。

パウロ
「パウロ・ノトス・グレイラット」

シートン
「ノトス・グレイラット……って、え……うそだろ……?」

中級貴族子息
「………………」

中級貴族の子息が息を呑む。
そのまま彼が黙り込むのを、パウロはジッと見ていた。

少しして、中級貴族の子息は口を開いた。

中級貴族子息
「……ノトス・グレイラット家の長男か。
まだ幼いせいで、貴族の礼儀がわかっていないと見える」

中級貴族子息
「いいだろう、私がいろいろと教えてあげよう。
それが年長者の務めというものだからな」

そう言って差し出された手を、パウロは――。

パウロ
「いいよ」

パウロ
「きみに教えてもらわなきゃいけないこと、何もないと思うから」

あっさりと、にべもなく断った。
手を差し出した格好のまま、相手の表情が歪んでいく。

中級貴族子息
「後悔するぞ……!」

パウロ
「たぶん、しないと思うけど」

睨み合いにもならない。
中級貴族子息はシートンとパウロを押しのけるようにして、取り巻きたちをつれ、その場からいなくなった。

シートン
「ねぇ、あの、きみ……」

中級貴族子息たちがいなくなると、シートンがパウロを振り返って口を開く。

シートン
「あ……きみ、じゃなくて、あなたはグレイラット家の方だったんですね……。
僕、そうとは知らなくて……」

パウロ
「いいよ。そんな喋り方しなくて。
さっきまでみたいに――」

シートン
「ほ、本当に申し訳ございませんでした!」

シートンが勢いよく頭を下げる。

シートン
「どうか我が家には、なんのおとがめも――」

パウロ
「いやいや、待ってよ!
シートン、何言ってるの!?」

パウロ
「おれがあいつみたいなこと言うわけないじゃん!」

シートン
「そ……それは……」

パウロ
「!!」

目が合って、すぐに逸らされた。
シートンの目には怯えが浮かんでいて、パウロは血の気が引いていく。

パウロ
(なんで、こんな目で見られてんの?)

シートン
「本当に、すみませんでした。
し、失礼します……!」

逃げ出すようにいなくなったシートンの背中に、声をかけることすらできなかった。

パウロ
(意味がわからない……。
おれはただ……)

パウロ
(友だちになれればって、思っただけなのに)

今までのパウロは、屋敷の中で好き勝手に過ごしていた。
貴族のしがらみや常識を持ちだされても、理解するのは難しい。

パウロ
(……やっぱり、学校なんておもしろくないや)

まったくもって気分が上がらない。
パウロはその日の授業はサボることにした。

勉強は嫌いだ。
小難しい貴族の常識も肌に合わない。
学校なんてつまらない。

入学して以来、初回の授業だけ出席して、それ以降の授業は気分次第でサボっている。

そんなパウロだが、唯一、一度もサボらずに出席している科目があった。

それは剣術の授業だ。

剣術講師
「――今日の授業はここまで。
ああ、パウロ・グレイラットは少し残りなさい」

パウロ
「はーい?」

講師は水神流を主体として使う、上級の女剣士だった。
パウロは彼女の授業だけは欠かさず参加している。

水神流講師
「どうして残されたと思います?」

パウロ
「えーっと、居残りで特訓するため、とか……?」

水神流講師
「違います」

水神流講師
「他の課目を受け持つ講師たちに、あなたに授業に出るよう、しっかり言い聞かせてほしいと言われたからです」

パウロ
「? どうして先生に言うんです?」

水神流講師
「あなたがわたしの授業にだけ、真面目に参加しているからでしょうね」

水神流講師
「というわけです。授業に出なさい」

パウロ
「うーん……、まぁ、先生がそう言うなら……、できる限り、は……」

パウロ
「でも、魔法の授業はなぁ……。
おれ、あれだけはからっきしだから、出ても意味がないというか……うーん……」

水神流講師
「まったく、素直に頷きもしないとは……。
あなたはなんのためにここへ来たんです?」

講師の言葉にパウロはムッとする。

パウロ
「来たくて来たんじゃないです。
父に放り込まれただけなので」

パウロの反抗心を感じ取ったのか、剣術の講師が目を細めた。

水神流講師
「甘えないでください。
これだから貴族のガキは嫌なんです」

パウロ
「せ、先生?」

元冒険者という経歴を持つ水神流講師は、パウロを厳しい顔で見下ろしている。

水神流講師
「チッ」

パウロ
(舌打ちされた!)

水神流講師
「いいですか?
口では嫌だ嫌だと駄々をこねていても、あなたは学校に居続けています」

水神流講師
「どうしても嫌なら馬車を捕まえてでも、歩いてでも、這ってでも帰ればいい。そうしない時点で、あなたは学校に残ると自分で決めているんですよ」

容赦のない言葉にパウロはグッと顔をしかめる。
彼女の言うとおり、学校から逃げ出そうとしたことはなかった。
だから否定できない。

パウロ
「でも……ここは、居心地が悪いです」

水神流講師
「………………」

パウロ
「家格の高い貴族の子供は偉そうだし、低い家の子は、いじめられて当然みたいな態度だ……」

パウロ
「なんだか、ギスギスしてる。
だから、ここは……ちっともおもしろくないです」

水神流講師
「子供ばかりとはいえ、学校は貴族の縮図です。
他人事のように言いますけど、あなたは生まれた瞬間からその世界で生きています」

水神流講師
「その世界が嫌だと言うのなら、自分の足で出て行くしかないでしょう」

水神流講師
「もっとも、学校からですら逃げられないあなたに、出て行くだけの度胸があるとは……ん?」

パウロ
「っ……ぅ……」

水神流講師
「!? ちょ、待って……泣いてるんですか!?」

パウロ
「うぅ……っ、泣いて、ません……!」

うそだ。
普通に泣いていた。

貴族らしくあれと言われて育てられたり、学校に放り込まれたりしたが、パウロ少年は基本的に甘やかされて生きてきた。

ズケズケと図星をつかれ、厳しい言葉を投げつけられ、その結果、涙がこぼれた。

水神流講師
「待って待って待って! 私ですか!?
これは私が泣かせたことになるんですか!?」

パウロ
「泣いて、ませんってば……!」

水神流講師
「ど、どうしましょうか……。
くれぐれも問題を起こすなと、学校長に言われているのに……。
これは、問題ですよ、ね……?」

貴族の子女が通う学校に採用された、元女冒険者。
いろいろと制約もあるのだろう。

水神流講師
「……パウロ・グレイラット、泣きやみなさい。
わかりますよ、泣いている顔を見られて、さぞ恥ずかしいことでしょうね、ええ」

水神流講師
「ですから今回は、お互いになかったことにしましょう。
もちろん、わたしは大人ですからね。
お詫びにあなたのお願いをひとつ聞いてあげます」

ずばり、口止めの買収だ。

水神流講師
「何か私にしてほしいことはありますか?」

パウロは涙をぬぐいながら水神流講師を見た。

パウロ
(して、ほしいこと……。
それはあるけど……でも……)

パウロ
(先生は、動きやすい格好だから、ドレスじゃないから、ムリだ……)

パウロ
「先生には、秘密の花園が、ない……」

水神流講師
「はい? なんですか?」

パウロ
「もぐりこませてほしいってお願いは、できない……」

水神流講師
「もぐりこむ? なんですか、それは?
さっきから、あなたが何を言っているのかわかりません」

パウロ
(秘密の花園に、もぐりこませてもらえない。
だったら……)

パウロ
「お願い、思いつきました」

パウロは講師の目をまっすぐ見据えて、お願いを口にした。

パウロ
「剣術の授業の、補講をしてください」

水神流講師
「補講……」

水神流講師
「少し驚きですね。まさか補講を望むほど、あなたが真面目な学生だとは思いませんでした」

パウロ
「まじめではないって、自分でも思います」

パウロ
「ただ、この学校で剣術の授業だけは、おもしろいって思えるから」

パウロが笑顔で言うと、剣術の講師はキョトンと目を丸くする。

そしてすぐ、彼女はニヤリと笑った。

水神流講師
「そうでしょう? 剣は面白いんです。
この道はどこまでも続き、極みに到達できる者はほんのひと握りしかいません」

水神流講師
「わたしの見る限り、あなたの剣には光るものがあります」

パウロ
「じゃあ!」

水神流講師
「剣術の補講の話、お受けしましょう」

パウロ
「本当ですか!? ありがとうございます、先生!」

思わず、本当に、思わず。

パウロは喜びの感情のまま、講師の腰に手を回して抱きついた。
鍛えられて、健康的にくびれた腰回りだった。

それからパウロは剣術の授業を中心に、少しずつ授業に出るようになった。

もっとも、出席と欠席の比率は、ギリギリ4対6とか、その程度なのだが――。

やがて学校が長期休暇を迎えると、パウロはノトス・グレイラットの屋敷へと、一時的に帰宅することが許された。

パウロ
「父様、ただいま戻りました」

アマラント
「………………」

パウロ
「父様?」

帰郷の挨拶をするパウロを前に、父親は険しい表情を崩そうとしない。

部屋の空気が、父親のまとう雰囲気が、いつもと違った。

アマラント
「私はお前に甘すぎたのかもしれぬな」

パウロ
「え?」

アマラント
「お前の学校での様子の報告を受けた。
随分と不真面目な生活態度のようだ」

パウロ
「それは……だって、机にしがみついての勉強は、おれに向いてませんし……」

アマラント
「言い訳をするな。
貴族らしくあれという言葉は、どうやらお前に届いていなかったようだ」

アマラント
「お前の帰郷に合わせ、新しい家庭教師を数人雇った。
これまでのような態度は許さん。
家でも勉強に励むように」

パウロ
「そんな……!」

帰ってきたばかりで告げられた言葉に、パウロは声を上げる。

パウロ
「せっかく帰って来たのに、家でも勉強しないといけないんですか!?」

パウロ
「学校の課題だってあるし、帰ったらやろうと思ってたことがいっぱい――」

アマラント
「パウロ……パウロ・ノトス・グレイラット。
お前は私の後継者なのだ」

アマラント
「ノトス・グレイラット家の長男として、学校で他の家の貴族たちと顔を合わせた以上、侮られるような素養を見せてはならぬ……わかったな?」

もともと、父には口うるさいところがあった。
厳しいことだって言われた。
それでも、どこかにパウロへの甘さがあった。

パウロ
(父様の目……)

パウロを見下ろす目は、父親としてのものではなく、上級貴族の当主としてのものだった。

パウロ
(なんで、なんで……そんな目で見るんだ?)

少し会わない間に、父親が別の生き物になってしまったかのようだ。

パウロ
「っ……失礼します!」

パウロは父に背を向けて、脱兎のごとく部屋を飛び出した。

長い廊下を走っていく。
何人ものメイドとすれ違ったが、触れる余裕はない。

走って、走って。
辿りついたのは、母親の部屋だった。

パウロ
「母様!」

バレンティナ
「パウロ! よく帰ってきたわね!」

バレンティナ
「一刻も早く会いたかったのだけれど、旦那様がお話があるっておっしゃったから……」

バレンティナ
「さあ、顔をよく見せて!」

母に近づくと優しく抱きしめられ、頬に両手を添えられる。

バレンティナ
「ふふふ、少し見ない間に大きくなったみたいね。
子供の成長は早いわ……」

パウロ
「母様は変わりませんね。
あたたかくて、優しくて、いい匂いがします」

バレンティナ
「まあ! 成長したと思ったけれど、まだまだ甘えん坊さんね」

パウロ
「ずっと、会いたかったんです。
ちゃんとお別れも言えませんでしたし……」

母の腕に抱かれて、パウロは目を閉じる。

パウロ
「母様……ただいま、戻りました」

バレンティナ
「おかえりなさい。
パウロ・ノトス・グレイラット……、わたくしの可愛い子……」

なんて、心安らぐのだろう。

優しくて、柔らかい腕の中にいる、その間だけ、パウロは学校への不満も、父親の厳しい目も、全てを忘れることができたのだった。



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